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  • 2013.05.16 Thursday

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    退会者の反論(1回目)

    • 2013.05.16 Thursday
    • 20:34
    まず、こそこそとネットで書いたものと思われているようですが、大きな誤解です。これは、mixiでH講師と三願転入について法論して、H講師が法論を放棄した内容と、O講師のブログ「浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い」と法論して、やはりO講師が法論を放棄した内容を、主にまとめたものです。
    従って、すでに両講師との法論で議論し尽された内容ばかりですが、M講師は御存知ないようです。その時の法論の内容に少し補足しながら説明させて頂きます。

    全般的なこととして、私は沢山の根拠を挙げました。経典、善知識方のお言葉で説明していますが、その根拠についてM講師が触れているのは、大経の異訳本についてのみです。他の根拠を無視されていることは、仏弟子として如何なものでしょうか。帽子に合わせて頭を削っているのはどちらかよくお考え下さい。


     複繊砲砲弔い

    『尊号真像銘文』には、

    「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。


    とあります。「唯除五逆誹謗正法」とあるから、「十方一切の衆生みなもれず」と親鸞聖人は仰っています。ならば、「唯除五逆誹謗正法」のない19願と20願は、もれている者があるということではないですか。この説明を補足する根拠の1つとして、異訳本を最初に出したのです。私は親鸞聖人のお言葉に添って説明したまでです。それを無視されるのですね。以下の項目も関連していますので、併せてよくお読み下さい。異訳本が、親鸞聖人の解釈と全く矛盾していないことがお分かりいただけるものと思います。


     複臓砲砲弔い

    『教行信証』化土巻・要門釈の最初に

    しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
    ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。


    と仰っています。これを無視されていますが、よく意味がお分かりでないようですので、解説します。
    前半は

    外道の人が半字教(小乗仏教)、満字教(大乗仏教)、権教(四車家の立場から聖道門内の三乗)、実教(四車家の立場から聖道門内の一乗)、つまり聖道門に入るといえども、真実のものははなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。

    です。外道から聖道門に入っても、聖道門の教えを実践していける者が甚だ少ないことを仰ったお言葉です。

    それを承けられて釈尊は、福徳蔵(観経の定散二善)を説かれた、と仰っています。聖道門の修行に堪えれない人のために観経を説かれたということです。その御心は阿弥陀仏の19願にあったということです。
    ここで、「群生海」「諸有海」とは、 複繊砲琉嫐であることは文章の繋がりからお分かりいただけると思っています。
    法然上人の『西方指南抄』(親鸞聖人御真筆)には

    第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也。


    とあることも、同様のことです。これらを否定されるということですか。
    また『浄土和讃』の

    臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく
     『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり


    も無視ですか。「定散諸機」とは、親鸞会で教えているような「定散二善」の意味ではありません。定善の機、散善の機ということです。
    『正信偈』の「矜哀定散与逆悪」『正信偈大意』の「されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり。」とあるように、「定散の機」と「五逆の機」は別であると仰っています。それも御理解いただけますか。

    さて、釈尊が韋提希夫人に定散二善をすすめられたと思われているようですが、大きな勘違いです。

    『観無量寿経』に

    ときに韋提希、仏にまうしてまうさく、「世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」と。


    とあり、『玄義分』にも

    問ひていはく、定散二善はたれの致請による。
    答へていはく、定善の一門は韋提の致請にして、散善の一門はこれ仏の自説なり。


    とあります。韋提希夫人が、自分は釈尊のお力で浄土を見ることができたけれども、仏滅後の衆生はどうすれば極楽浄土を見ることができるのですか、と問われて釈尊が説かれたのが定善です。また釈尊が定善を韋提希夫人に説かれたことと、定善を韋提希夫人にすすめられたこととの違いは御理解いただけますか。実際に、韋提希夫人は定善を実践しようともしていません。

    『選択本願念仏集』に

    わたくしに問ひていはく、上輩の文のなかに、念仏のほかにまた捨家棄欲等の余行あり。中輩の文のなかに、また起立塔像等の余行あり。下輩の文のなかに、また菩提心等の余行あり。なんがゆゑぞただ念仏往生といふや。
    答へていはく、善導和尚の『観念法門』にいはく、「またこの『経』(大経)の下巻の初めにのたまはく、〈仏(釈尊)、一切衆生の根性の不同を説きたまふに、上・中・下あり。
    その根性に随ひて、仏、みなもつぱら無量寿仏の名を念ぜよと勧めたまふ。その人命終らんと欲する時、仏(阿弥陀仏)、聖衆とみづから来りて迎接したまひて、ことごとく往生を得しめたまふ〉」と。この釈の意によるに、三輩ともに念仏往生といふ。

    問ひていはく、この釈いまだ前の難を遮せず。なんぞ余行を棄ててただ念仏といふや。
    答へていはく、これに三の意あり。一には諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。

    (中略)

    一に、諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説くといふは、善導の『観経疏』(散善義)のなかに、「上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」といふ釈の意に准じて、しばらくこれを解せば、上輩のなかに菩提心等の余行を説くといへども、上の本願(第十八願)に望むるに、意ただ衆生をしてもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
    しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」といふ。


    現代語訳も付けておきます。

    わたくしに問うていう。上輩の門の中に、念仏のほかにまた家を捨て欲を離れるなどの余行があり、中輩の文の中にもまた塔をたて仏像をつくるなどの余行があり、下輩の文の中にもまた菩提心などの余行がある。それにどういうわけでただ念仏往生というのか。
    答えていう。善導和尚の《観念法門》に、
    また、この経 (大経) の下巻の初めにいわれている。「釈迦仏が説かれる。『一切衆生の機根はまちまちで、上・中・下の三種がある。その機根に随って、わたしはみな無量寿仏のみ名をもっぱら称えることを勧める。その人が命終わろうとするときに、阿弥陀仏は聖衆と共にみずから来て迎えとり、ことごとく往生させてくださる。』」
    といわれてある。この解釈の意によって三輩共に念仏往生というのである。

    問うていう。この解釈ではまだ前の疑難をしりぞけていない。どうして余行を棄ててただ念仏というのか。
    答えていう。これに三つの意がある。一つには諸行を廃して念仏に帰せしめるために諸行を説く。

    (中略)

    一つに、諸行を廃して念仏に帰せしめるために諸行を説くというのは、善導の《観経疏》の中に、
    《観経》の初めから、定善・散善の両門の利益を説いてきたけれども、阿弥陀仏の本願に望めてみると、世尊の思し召しは、人々をして一向に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあるのである。
    といわれた釈の意に準じて、しばらくこれを解釈すると、上輩の中に菩提心などの余行を説かれているけれども、上の本願に望めてみると、世尊の思し召しはただ衆生をして専ら阿弥陀仏の名号を称えさせるにある。ところが、本願の中に更に余行はない。三輩共に上の本願に依るから「一向に専ら無量寿仏を念ずる」と説かれているのである。


    また以下のことも仰っています。

    また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
    例するに『法華』の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説なくは、なんぞ『法華』第一を顕さん。ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。


    (現代語訳)

    また定・散の諸行を説くことは、念仏がその他の善に超え勝れていることを顕わすためである。もし定散の諸行がなかったならば、どうして念仏が特に秀でた行であることを顕わされようか。例えば《法華経》が、それ以前の説、同時の説、それ以後の説の三説の上に秀でているようなものである。もし三説がなかったならば、どうして《法華経》が第一に秀でていることを顕わされようか。ゆえに今、定散の諸行はこれを廃するために説き、念仏三昧はそれを立てるために説かれるのである。


    と法然上人ははっきりと教えられていますが、御存知ないのですか。
    また『教行信証』行巻に念仏諸善比校対論として

    勧無勧対(念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない)


    と仰っていますが、諸仏が諸善を勧められていないと仰っていますが、親鸞聖人は嘘を仰ったのでしょうか。
    参考までに『観無量寿経』の下品下生を見ると

    仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。


    とあります。下品上生、下品中生も含めて、下輩には善の勧めはありません。韋提希夫人は上輩か中輩ということでしょうか。


     複叩砲砲弔い

    善巧方便と権仮方便の意味を御存知ないようですので、解説を紹介しておきます。

    教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』の補註

     方便とは、仏が衆生を救済するときに用いられるたくみな方法をいう。その中に真実と権仮とがある。真実の方便とは、仏の本意にかなって用いられる教化の方法で、随自意の法門をいう。それは、大智を全うじた大悲が巧みな方法便宜をもって衆生を済度されるというので、善巧方便ともいう。阿弥陀仏を方便法身というときの方便がそれである。
     権仮方便とは、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受けとれないから、その機に応じて、仮に暫く誘引のために用いられる程度の低い教えをいう。機が熟すれば真実の法門に入らしめて、権仮の法門は還って廃せられる。このように暫く用いるが、後には還って廃するような随他意の法門を権仮方便という。「方便化身土」といわれるときの方便がそれである。
     親鸞聖人は四十八願の中で、往生の因を誓われた第十八願、第十九願、第二十願のうち第十八願のみが真実願であり、第十九願、第二十願は方便願であるとされた。第十八願は、他力回向の行信によって、真実報土の果を得しめられる真実願であり、第十九願は、自力諸行によって往生を願うものを、臨終に来迎して方便化土に往生せしめることを誓われたものであり、第二十願は、自力念仏によって往生を願うものを、方便化土に往生せしめることを誓われた方便願であるといわれるのである。そしてこの三願は、聖道門の機を浄土門に誘うために第十九願が、自力諸行の機を念仏の法門に導き、さらにその自力心を捨てしめて第十八願の他力念仏往生の法門に引き入れるために第二十願が誓われたとされている。


    この程度の知識を最低限持っていなければ、親鸞聖人の御著書を読んでも全く理解できません。

    『教行信証』信巻・別序の

    真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり。


    のお言葉は、まさに親鸞会の基本的な誤りを正されたものです。釈尊は善巧方便をもって真実信心を明らかにされたのであって、権仮方便をもってではありません。

    『高僧和讃』善導讃

    釈迦・弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し
     われらが無上の信心を 発起せしめたまひけり


    も、同様のことを仰っています。
    『蓮如上人御一代記聞書』にも、

    一 蓮如上人仰せられ候ふ。方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふと[云々]。


    とあります。「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」の「方便」は「廃立の義」ですから、捨てるべき権仮方便のことです。最後の文は文字通り、「善巧方便」のことです。「真実の信」は、「善巧方便によりて」うるのであって、「権仮方便によりて」ではありません。

    以上のことをまとめて判りやすく言えば、親鸞聖人は18願1つで救われるのだと、繰り返し繰り返し教えられているのですが、絶対他力18願での往生をとても信じられない無宿善の機(未熟の機)がいますので、そんな機に対しては、権仮方便をもって18願での往生を願わせるところまで導かれるのです。親鸞聖人の教えを信じて、18願での往生を願う宿善の機に対しては、善巧方便をもって済度されるのです。

    この善巧方便を具体的に描かれたのが、『教行信証』信巻末にある阿闍世の物語です。一見すれば、略されてもよいように思われる部分までも、事細かに引文されています。実に『教行信証』全体の1割も費やされて、親鸞聖人は何を教えられたかったのでしょうか。それは衆生が善巧方便によって導かれることを示されると共に、五逆罪を犯した極悪人をも洩らさず、普く救いたもう本願であることを親鸞聖人が明らかにされるためであったのです。

    釈尊は阿闍世に対して、権仮方便をもって導かれたのではありません。『教行信証』を読まれたことがないから、内容を御存知ないのでしょうか。

    権仮方便については『浄土和讃』「大経讃」に、

    聖道権仮の方便に 衆生ひさしくとどまりて
     諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ


    とあります。親鸞会の説によれば、方便である聖道仏教もしなければなりません。
    善巧方便と権仮方便の意味が分かれば、三願転入は化土巻でしか仰っていないことが御理解いただけるのではないでしょうか。


    △砲弔い

    これも多くの根拠を出しましたが、悉く無視ですか。再度根拠を挙げておきます。

    『往生要集』信毀因縁には、

    問ふ。もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。

    答ふ。
    まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。『双巻経』(大経・下)にのたまふがごとし、
    「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生は、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見たてまつらず、このゆゑにかの国土においては、これを胎生といふ」と。
    仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。しかも願に随ひて往生するは、これ仏の悲願の力なり。『清浄覚経』(平等覚経・三)に、この胎生をもつて中輩・下輩の人となせり。


    『往生要集』報化得失

    雑修のものは執心不牢の人となすなり。ゆゑに懈慢国に生ず。もし雑修せずして、もつぱらにしてこの業を行ぜば、これすなはち執心牢固にして、さだめて極楽国に生ぜん。{乃至}また報の浄土に生るるものはきはめて少なし。化の浄土のなかに生るるもの少なからず。ゆゑに経に別に説けり。実には相違せず。


    『高僧和讃』源信讃

    報の浄土の往生は おほからずとぞあらはせる
     化土にうまるる衆生をば すくなからずとをしへたり


    『末灯鈔』

    念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。


    『正信偈大意』

    「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」といふは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。これすなはち、専雑二修の浅深を判じたまへるこころなり。『和讃』にいはく、「報の浄土の往生は おほからずとぞあらはせる 化土に生るる衆生をば すくなからずとをしへたり」といへるはこのこころなりとしるべし。


    『三経往生文類』

    弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。しかりといへども定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑ふ。その罪ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあひだ自在なることあたはず、三宝をみたてまつらず、つかへたてまつることなしと、如来は説きたまへり。しかれども如来の尊号を称念するゆゑに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆゑに難思往生と申すなり。不可思議の誓願、疑惑する罪によりて難思議往生とは申さずと知るべきなり。


    『正像末和讃』誡疑讃

    不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して
     罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり

    仏智の不思議をうたがひて 自力の称念このむゆゑ
     辺地懈慢にとどまりて 仏恩報ずるこころなし

    罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがひて
     疑城胎宮にとどまれば 三宝にはなれたてまつる

    仏智疑惑のつみにより 懈慢辺地にとまるなり
     疑惑のつみのふかきゆゑ 年歳劫数をふるととく

    転輪皇の王子の 皇につみをうるゆゑに
     金鎖をもちてつなぎつつ 牢獄にいるがごとくなり

    自力称名のひとはみな 如来の本願信ぜねば
     うたがふつみのふかきゆゑ 七宝の獄にぞいましむる

    信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も
     如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし

    自力諸善のひとはみな 仏智の不思議をうたがへば
     自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける

    仏智不思議をうたがひて 善本・徳本たのむひと
     辺地懈慢にうまるれば 大慈大悲はえざりけり

    本願疑惑の行者には 含花未出のひともあり
     或生辺地ときらひつつ 或堕宮胎とすてらるる

    如来の諸智を疑惑して 信ぜずながらなほもまた
     罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり

    仏智を疑惑するゆゑに 胎生のものは智慧もなし
     胎宮にかならずうまるるを 牢獄にいるとたとへたり

    七宝の宮殿にうまれては 五百歳のとしをへて
     三宝を見聞せざるゆゑ 有情利益はさらになし

    辺地七宝の宮殿に 五百歳までいでずして
     みづから過咎をなさしめて もろもろの厄をうくるなり

    罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは
     疑心の善人なるゆゑに 方便化土にとまるなり

    弥陀の本願信ぜねば 疑惑を帯してうまれつつ
     はなはすなはちひらけねば 胎に処するにたとへたり

    ときに慈氏菩薩の 世尊にまうしたまひけり
     何因何縁いかなれば 胎生・化生となづけたる

    如来慈氏にのたまはく 疑惑の心をもちながら
     善本修するをたのみにて 胎生辺地にとどまれり

    仏智疑惑のつみゆゑに 五百歳まで牢獄に
     かたくいましめおはします これを胎生とときたまふ

    仏智不思議をうたがひて 罪福信ずる有情は
     宮殿にかならずうまるれば 胎生のものとときたまふ

    自力の心をむねとして 不思議の仏智をたのまねば
     胎宮にうまれて五百歳 三宝の慈悲にはなれたり

    仏智の不思議を疑惑して 罪福信じ善本を
     修して浄土をねがふをば 胎生といふとときたまふ


    これらの多くの根拠をすべて嘘と断言なされる訳ですか。

    親鸞聖人が化土往生について仰っているのは、殆どが20願自力念仏についてです。自力念仏の行が誰にもできないなんて、まさか仰らないと思いますが、O講師は念仏さえ称えられないのが私たちだと主張して墓穴を掘っています。

    『教行信証』化土巻・真門釈に

    元照律師の『弥陀経の義疏』にいはく、「如来、持名の功勝れたることを明かさんと欲す。まづ余善を貶して少善根とす。いはゆる布施・持戒・立寺・造像・礼誦・座禅・懺念・苦行、一切福業、もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなはち知ん、称名はこれ多善根・多福徳なりと。
    むかしこの解をなしし、人なほ遅疑しき。近く襄陽の石碑の経の本文を得て、理冥符せり。はじめて深信を懐く。かれにいはく、〈善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもつてのゆゑに、諸罪消滅す。すなはちこれ多功徳・多善根・多福徳因縁なり〉」と。


    と仰っています。真門釈ですから、20願自力念仏についてですが、親鸞聖人は自力念仏を「多功徳・多善根・多福徳因縁」と仰っています。因果の道理を信じておられるならば、

    他力念仏⇒報土往生
    自力念仏⇒必堕無間
    念仏誹謗⇒必堕無間


    に矛盾を感じられないとおかしいと思いますが、如何でしょうか。自力念仏に大した功徳がないと仰るならば、最早、浄土門ではありません。

    ちなみにM講師の出された親鸞聖人のお言葉は、阿弥陀仏の本願も知らずに、報土往生も化土往生もできないならば、ということであって、化土往生できない根拠ではありません。
    蓮如上人のお言葉も、都合のいいところだけと断章取義されていますが、他の御文章では、地獄に堕ちると仰っているのは、異安心、邪義の者に対してです。

    これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もってのほか相違す。そのゆえは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といい、これを信心のひとといえり。これおおきなるあやまりなり。また弟子は、坊主にものをだにもおおくまいらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきようにおもえり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあいだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに、極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことはうたがいなし。(1帖目第11通)


    それ越前の国にひろまるところの秘事法門といえることは、さらに仏法にてはなし。あさましき外道の法なりこれを信ずるものは、ながく無間地獄にしずむべき業にて、いたずらごとなり。(2帖目第14通)


    もし、信心決定できなければ、死後は必ず無間地獄に堕ちるのであれば、このようなことを仰ったことは無意味なことになります。異安心も、邪義も関係なく必堕無間なのですから。
    従ってM講師の挙げられた2つも、それらの者に対して仰ったと考えるべきではありませんか。
    参考までに後生の一大事について、他の御文章は読まれたことはありませんか。

    もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。(1帖目第11通)


    ただし人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の楽果なり。たとひまた栄華にほこり栄耀にあまるといふとも、盛者必衰会者定離のならひなれば、ひさしくたもつべきにあらず。ただ五十年・百年のあひだのことなり。それも老少不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。(2帖目第7通)


    この他力の信心ということをくはしくしらずば、今度の一大事の往生極楽はまことにもてかなふべからず。(2帖目第10通)


    いそぎてもいそぎてもねがうべきものは後生善所の一大事にすぎたるはなし。(帖外御文)


    以上のことから、後生の一大事とは、死んで必ず無間地獄に堕ちる一大事という意味ではありません。親鸞会は、都合の悪い根拠は無視することしかしませんが、それで正しい解釈ができる訳がないです。


    について

    法然上人の『往生大要鈔』では

    われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず。


    と仰り、また『浄土宗大意』には、

    五逆をもつくらさるわれらを、弥陀の名号を称念せむに往生うたかうへからず。


    ともあります。
    聖覚法印の『唯信鈔』には、

    五逆の罪人すら、なほ十念のゆゑにふかく刹那のあひだに往生をとぐ。いはんや罪五逆にいたらず、功十念にすぎたらんをや。


    とか、

    われら、罪業おもしというとも、五逆をばつくらず。


    と仰っていますが、これらも嘘ということですか。
    親鸞聖人は『唯信鈔』を何度も御自身で写されて、関東の同行に読むようにと送っておられますが、嘘の書いてある書物を読むように勧められたことになります。

    さてM講師の質問に答えますと、『末灯鈔』には

    善知識をおろかにおもい、師をそしるものをば、謗法のものともうすなり。親をそしるものをば、五逆のものともうすなり。同座をせざれとそうろうなり。されば、きたのこうりにそうらいし善証坊は、親をのり、善信をようようにそしりそうらいしかば、ちかづきむつまじくおもいそうらわで、ちかづけずそうらいき。明法の御坊の往生のことをききながら、そのあとをおろかにもせんひとびとは、その同朋にあらずそうろうべし。


    とあります。後の部分もしっかり読んで下さい。
    訳してみますと、

    善知識をおろそかに思い、師を謗る人を、謗法の者というのです。親を謗る人を五逆の者というのです。このような人とは同席をしてはいけないといわれています。ですから、北の郡にいた善証房は、親を罵り、親鸞を様々に謗っていましたので、親しく接しようとは思わずに、近づけないようにしていました。明法房の往生のことを聞きながら、その遺志をおろそかにする人々は、同朋ではありません。


    このようになります。
    謗法罪の人、五逆罪の人とは親しくしてはいけないと教えられていますから、謗法罪、五逆罪を犯していた善証房を遠ざけていました、と親鸞聖人は仰っているのです。ここで謗法罪、五逆罪の者とは、善証房のことを指しています。
    このお言葉に近い内容として、同じく『末灯鈔』に

    この御なかのひとびとも、少々はあしきさまなることもきこえそうろうめり。師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなずりなんどしあわせたまうよしきこえそうろう。あさましくそうろう。すでに、謗法のひとなり、五逆のひとなり。なれむつぶべからず。『浄土論』(論註)ともうすふみには、「かようのひとは、仏法信ずるこころのなきより、このこころはおこるなり」とそうろうめり。また、至誠心のなかには、「かように悪をこのまんひとには、つつしみてとおざかれ、ちかづくことなかれ」とこそ、おしえおかれてそうらえ。善知識・同行にはしたしみちかづけとこそ、ときおかれそうらえ。


    とあります。このお言葉も、関東の同行に宛てたお手紙の一部です。訳してみますと、

    皆さんの中にも、少々悪い噂が聞こえてきます。師を謗り、善知識を軽んじ、同行を貶めあっていると聞いています。浅ましいことです。こんな人は、すでに謗法の人であり、五逆の人です。親しく接してはいけません。『浄土論註』という書には、「このような人は、仏法を信ずる心がないから、この心が起こるのだ」と書かれています。また、『観無量寿経疏』の「至誠心釈」の中に、「このように悪を好む人には、慎んで遠ざかれ、近付いてはならない」と教えられています。善知識・同行には親しみ近づきなさいと説かれているのです。


    となります。
    これらのお言葉から、かつて親鸞聖人から直接話を聞いていた関東の同行の中に、謗法罪、五逆罪の者がいるから、彼らに近付くな、と仰っていることがわかりますし、このような恐ろしい悪を慎むように誡めておられます。もちろん謗法罪、五逆罪を犯していない同行がいる前提で仰っていることは明らかです。
    ですから当然のごとく全ての人が謗法罪、五逆罪を犯しているという意味合いで、親鸞聖人は仰っていません。
    前後を読めば、謗法罪、五逆罪の人とは、一部の人という意味にしか解釈できませんが、違いますか。

    (参照)
    「飛雲 〜親鸞会の邪義を通して〜」
    M講師からの反論−三願転入の教え
    M講師からの反論−化土往生1
    M講師からの反論−逆謗1

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    • 2013.05.16 Thursday
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